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趣味の写真やサッカー、日々のニュースについて思ったことを綴っていこうと思います。来年早々からマスコミ関連で働く予定。奴隷のように働くみたいだけど、そこでの裏話もあれば書こうかと。そんな暇ない!?

ALWAYS続・三丁目の夕日

410_w0176a1001_0_1.jpg 昨日、六本木で「ALWAYS続・三丁目の夕日」を鑑賞しました。平日ともあって、夜6時からの上映は4割程の客の入り。中段のちょうどいい席で楽しめました。

 高度経済成長に足を踏み入れる昭和30年代を舞台に、堤真一の鈴木オートと吉岡秀隆の茶川家が織りなす、ハンカチ必携ハートフルストーリー、ということはよく知られています。一緒に観に行った彼女もハンカチ携帯済みでした。

 実際は、私も彼女も大泣きするような事態になりませんでしたが、ぐっとくる場面はところどころありました。周りの席から涙ぐむ音も。特に、直後の席の女性は、目のまわり真っ赤でしたね。

 「フラガール」もそうでしたが、ベタまっしぐらな映画です。そういうのが流行ってますし。ゲームも技巧を凝らした複雑なものよりも、ニンテンドーDSを代表するようにシンプルなものが売れてますし。

 「誰もが涙する」=「ベタ」と私は考えていますし、世の中の評価も同様だと思います。

 井筒監督が「フラガール」を涙ながらに観て、最後に「ベタでええやん!!」って言ったのテレビで見ましたけど、その通りですね。ベタって多くの人のツボで、多くの人は幾度となく繰り返されるあるパターンを、繰り返されていると承知の上でそれを欲し、泣き、怒り、笑い消費していくんだろうと思います。

 落語だって古典は明治以前からず〜っと繰り返し演じられているわけですし、48作を数える「男はつらいよ」もどれもきまって「寅さんがマドンナに恋をして、必ずふられる」というストーリです。予想できるけど、飽きずにむしろあるパターンが繰り返されることを期待している。予定調和を楽しんでる。人間ってホントは変革や予想を裏切られるのを嫌うんですよね。←こんな考えがまさにベタですね…。

 もう一つ思ったのは、年配のサラリーマンが同僚ともしくは一人で会社帰りに観にきていたことです。映画の中の昭和30年代を再現した映像はさすがにノスタルジーを掻き立てます。昭和58年生まれの私でさえなんとなく懐かしさを感じるんですから、子供時代をすごした彼らはひとしおでしょう。「続」では東京タワーが完成していました。

 ただ、私を感傷的にしたのは、記憶からくるノスタルジーではなく、一種の憧れの気持ちです。

 「人間」という言葉には「間」が入っています。「間(あいだ)」が生まれるにはなんであろうと複数ある必要があります。私の勝手な解釈ですが、「人間」という言葉は、自分自身と「間」をつくりえる他者の存在を暗示しているんじゃないか、その他者との関係性の中で自身の存在を芽吹かせ、確認し、解釈しつづけることがまさに人間なんだということを含んでいるんじゃないかと思います。

 扉を開けっ放しにしたままで、顔を合わす誰もが知り合い。貧しいながら、寄り添い助け合って暮らしてる三丁目に人々の姿に「人間」の暮らしの理想をみて、アパートの隣人の顔も名前も思い出せない私は激しく憧憬するのでした。

 もたいまさこ演じるタバコ屋のおばちゃんが抜群です。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

「それでもボクはやってない」

 「それでもボクはやってない」と映画を見た。痴漢冤罪事件を通して、日本の裁判・司法の問題点を示した映画である。

 主人公の男性は乗り合わせた電車の中で、女子高生に痴漢と間違われ現行犯逮捕されてしまう。
 被害者である女子高生は実際痴漢被害を受けており、その女子高生に直接名指しされた場合、他に物的証拠がない痴漢犯罪では間違いなく最初から犯人扱いされてしまう。よって多くの事件を常時抱え、また処理件数の多さで勤務評定される警察、検察は、十分な裏づけ捜査をすることなく取調べの中で強引に被疑者を “オトそう”とする。

 痴漢犯罪では無実にもかかわらず、捕まった場合罪を認めて泣き寝入りするケースが多い。なぜなら、
・何日何ヶ月も拘置され、毎日5時間6時間もの長い時間厳しい取調べをうける。(人質司法と呼ばれ、これによって事実を曲げて罪を認めてしまう)
・無実を主張しても、拘置され続けると仕事が出来なくなり、裁判に勝っても世間からの信用を失う場合が大半。
・前科がない場合、罪を認めたとしても罰金5万円程度で済む。(現在は罰金の上限が50万に引き上げられた)
・裁判で無罪を勝ち取る確立は3%しかない。また裁判による精神的金銭的負担が重い。
などの理由による。

 また、長期間の拘留による拘禁症状によって涙もろくなったり、取調べをする警官や検事が自分の味方と思うようになる。そして、自分が罪を犯したと思い込むようなり、厳しい取調べから逃れたいという思いとあいまって犯行の供述を行ってしまうケースがある。

 裁判での問題点は
・結局、国家官僚である裁判官は国の機関の一部であって、同じく国家 機関である警察・検察の面子がつぶれる無罪という判決を敬遠する
・裁判官は常時200件もの事案を受け持ち多忙を極めている状況で、 一つの裁判に傾けるエネルギーは限定される。
・裁判官は最高裁を頂点とする完全なヒエラルキーであり、処理件数、 判決の内容などをもとに最高裁によって人事が決められる。上級裁の 意向に反するような判決を連発する裁判官は左遷される。要するに上 を伺う内容の判決がなされる。
・「疑わしきは罰せず」の刑事裁判の原則がおざなりにされている状  況。検察が被告人が有罪であることを立証しなければならず、その立 証に疑わしい点があれば無罪であるはずなのに、弁護側が無罪である ことを立証することを求められる現状がある。
・弁護側からの証拠開示は、検察・裁判官によって限定され、被告人と の接触時間が少ない弁護側は圧倒的に不利。
 など。

 痴漢の逮捕をめぐって争われている裁判は多いが、植草元早稲田大学教授による裁判が有名である。その判決が今月16日に出る。植草元教授は2006年9月に逮捕されて以来、一貫して容疑を否認しており、どのような判決がでるのか注目される。植草氏に対し冷淡な報道が目立つが、一部では検察の矛盾を突くものも見られる。植草氏自身『知られざる真実−勾留(こうりゅう)地にて−』という本を出版し、無罪を勝ち取るために徹底的に戦う模様だ。

 検察・弁護人のどちらの主張が合理的で真実らしいか、信用できそうかという判断を裁判官が下す。これが裁判であって、要するに裁判官の印象が結果を大きく左右する。タイムスリップして犯行現場を見れればいいがそんなことできない。真実は被告人のみぞ知るのである。そこに第三者である裁判官が判決を下す仕組みの内在的限界があるわけであるが、私たちはその欠陥を意識し、例えば植草氏の裁判を見るとき逮捕の報道のみを鵜呑みにし変質者のレッテルを安易に貼るのではなく、「もしかしたら無罪かも・・・」と考えることも必要だと思う。

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