高齢のため緑内障にかかってしまったカメラマンが、このままでは仕事にならないと思い手術を受けた。手術は無事成功したのだが、困ったことが起きた。手術前と手術後で色の見え方が全く違っていたのだ。色の鮮やかさがまるで違う。今まで鮮やかに見えていたものが、実際はくすんでいたと思うとぞっとしたという。あるカメラマンの話である。
人種・時代によっても色の見え方は違う。虹の色数は日本では7色だが、他の地域では5色や6色。また日本でも昔は5色で捉えていた。
色でさえ、どう見えているか人それぞれ違う。であるならば、その人が持つ価値観、感受性、何をどう捉え感じるかなんて誰一人として同じであるはずがない。
ニュースサイトの編集のバイトしているが、どのニュースを載せるのか、どの順位で載せるのか、ニュースの価値判断というところで意見は割れる。自分は面白い、重要だと思ったものが、そのとおり評価をされるかわからない。しかし、そこが一番楽しいところである。一つのニュースに対して、自分が知らない、思いもつかない切り口から語られることなど日常茶飯事。そのつど勉強になる。
色々な事件、事故、出来事があって、それぞれが今の社会の一面を映しだしている。どのニュースも社会的な意味がある。
あるからこそニュースになる。その意味をどう解釈するか。そんなことに頭を悩ますことがとても楽しい。
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先日、NHKスペシャルで中国の水不足問題が取り上げられていたのを興味深く拝見した。経済成長著しい中国、特に首都北京では、水の消費量が著しく増えているらしい。建設ビル、バスルームが二つもある高級マンション、日本向けの食品工場など、水の需要は高まるばかり。しかし、もともと中国北部は雨の少ない地域。まさに水を巡る攻防が繰り広げられている。
北京では水務局という部隊が日夜、水の違法な使用、無駄な利用に目を光らせている。ある夜彼らは違法に得た水を使い、路上で洗車の仕事をする女性三人を検挙した。いずれも貧しいなりをした中年女性。「初めてこの仕事をした、家賃、食費、子供の教育費のためにどうしてもお金が必要だ、お金がなければ生きていけない。」と主張したものの、彼らの商売道具は全て没収された。
ある地方の農村では、目の前にあるダムの水の利用を禁止されている。雨が降らず農地が干上がり、特産のスイカの生産を断念せざるを得ないにもかかわらずである。なぜなら、そのダムの水は輝かしい発展を遂げている首都北京の為に使われるもので、ちっぽけな貧しい農村のために使われるものではないからである。北京の国際空港近くには137メートルもの高さまで吹き上がる噴水が新しい名所として誕生する一方、その水を供給するダムの周りには一日バケツ3杯以下で暮らす農民の姿がある。
この悲劇的なまでの不平等に、この村の村長はこう語った。「我が国中国の首都北京は発展を続けており、そしてオリンピックがある。われわれは北京の発展のために我慢し、支えなければならない。我々の小さな問題は我慢しなければならない。」本心からの言葉かどうかは分からない。ただ少なくともダムの水を使わずに耐えているのは確かである。
急速な経済成長のなかで、中国ではあらゆる矛盾がふきだしている。北京オリンピックまではもつだろうが、その後どうなるのか。地下でうごめくマグマがプレートというおもしを突き破る日がそう遠くない時期に訪れるのだろうか。しかし、経済成長を陰で支え、そしてあらゆる矛盾のしわ寄せを最後に引き受けるのは、どの時代のどの社会でも同様であったが、常に圧倒的多数の貧しい人々であることは確かである。
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「手すりをおつかまりのうえ、線の内側に立って…、お子様の手をつないで…」「優先席付近は…お譲りください、携帯電話の電源は切って…」
フツーに電車やデパートなどを利用して生活していると、こういったアナウンスは必ず耳に入ってくる。みな慣れきってしまっているせいだろうか、この類の情報に対し、あまり文句を言う人を知らない。
しかし、私はこれらの「親切」なアナウンスを、ただの無駄な雑音だと思っている。わかりきっている事を何回も繰り返し繰り返しアナウンスすることにどれほどの意味があるのか。マインドコンロールでもする気なら別だが。
はっきり言って、おもてづらは親切そうな顔をしているだけで、ホントは何か事故が起きることへの恐れ、責任回避、逃げ口上を作っておくというような心理からあのようなアナウンスが生まれたように思えてならない。ご親切にアナウンスが何回もしつこく流れると逆に、親切心というより、ただ自己保身のためだろうと感じてしまう。
電車の優先席の掲示などを見ても、違和感がある。本来、お年寄り、妊娠女性、体が不自由な人などには、優先席だろうがなかろうが席を譲るべきである。結局、優先席というスペースを設けることで、大変そうだから席を譲ろうという気持ちの自然な発露というより、優先席だから席を譲らなければならないという考え方が出てきてしまう。
先日、優先席に座っていた男性が、妊娠女性に席を譲ったが、その女性は何かぎこちなさそうにしていた。そんな雰囲気に、せっかくの親切な行為が少し台無しなってしまったようないやな気分になった。
やはりこういう行為は個々人の自発性、ボランティアな精神の発露に任せるべきで、規範を押し付けるようなことはかえって反発を生むのではないかと思う。
ただルール化しないと誰も席を譲らない、という反論があるだろう。だが現状は、ルール化していても席を譲らないやつは譲らない。そしてルールがあるからといって譲るようなことでは、ますます席をゆずらない人は増えていくのではないかと思うのである。
優先席を設けるということは、モラルの低下に対する対症療法に過ぎない。それはそれで必然性を持ってなされたことは理解できるが、普通の席では席を譲らないといった本末転倒な事態を助長しなければいいが、と思う。モラルの低下は個々人が自らの心に問いかけるしかない。制度の制定や改正では低きに逃れる道を作り出すだけである。


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日本の戦後教育の大命題は「個性」と「平等」であった。しかし、よく考えると、いや普通に考えてさえ、個性を追求した先に平等などなく、そしてまたその逆もしかり、という結論になる。病的な平等意識のおかげで徒競走で順位を付けないというお粗末な事態になり、おかげで足が速いという立派な個性を持つものは活躍の場を失う。そして、平等とはただの横並び意識に堕落してしまったようにおもえる。
豊かな日本にあふれる商品製品はどれも規格どおり、着ている服もみな同じようなもの。好みは多様化しているが、流行や世の中の空気がある一方方向に一気に傾斜するさまは、結局は同じである事、マジョリティーである事に安心感を抱いている。マスメディアが標準を決定し、そこに人々が誘蛾灯に群がる蛾のように、すいよっていく。まさに標準化社会だ。。
今日、山手線に乗っていた。すると、8人ほどのおばちゃん軍団が乗り込んできた。彼女たちの存在アピール力は半端じゃないので、嫌々ながらもおばちゃんたちを見てしまった。。
するとどうだろう…。
8人が8人、みんな同じ背丈なのである。
もちろん、たいていのおばちゃん集団と同様、同じような服装、同じような髪型である。そこまでは今更の事だからもう何も言わない。同じお店でみんなで行って買い物したのだろう。同じ美容室に行って同じ髪形にしてもらったのだろう。
しかし、身長がみな同じとはどう事だろう?ショッカーじゃないんだから…。サイバイマンじゃないんだから…。笑いそうになってしまったのは俺だけではない。写メか持っていたビデオカメラで撮りたいと思ったが、さすがにおばちゃんのプライバシーと名誉を考え、断念した。
背丈までそろえるとは…。クローンかっ。まさに標準化社会。。
おばちゃんよ、個性を忘るる事なかれ!

